2024年10月衆議院議員ランキング 28回戦
下条みつ vs 二階俊博
勝: 二階俊博
戦評
議員Aと議員Bを比較して、選挙で選ばれるべき人物についての判断をします。 まず、議員Aについてですが、彼のキャリアは多くの経験に裏打ちされています。防衛大臣政務官としても務めており、政治経験が豊富です。しかし、不祥事としてパワハラ疑惑や問題献金の受理といった事項があります。これらの問題は信頼性に影を落とし、選挙での支持を得ることを難しくするかもしれません。 一方、議員Bは長年にわたって国会議員を務め、多くの重要ポストを歴任してきました。彼の政治的スタンスは親中派で、経済政策などにおいて積極的です。しかし、西松建設事件や2024年の派閥裏金問題など、こちらも不祥事が絡んでいます。特に、2024年の裏金問題で次期選挙に出馬しない意向を示したことは、問題解決の責任を取る姿勢を見せています。 総合的に見ると、議員Bは幅広い人脈や調整力を持ち、幹事長としての実績を含め、強いリーダーシップを発揮しています。不祥事に対する対応も素早く、責任の取り方も明確です。 以上の観点から、選挙で選ばれるべき議員はBと判断します。
下条 みつ(しもじょう みつ)
議員データ
衆議院議員 | |
年齢 | 69歳 (1955年12月29日生) |
所属政党 | 立憲民主党 (民主党(羽田G)→)(民進党→)(希望の党→)(国民民主党 / 新政信州→)立憲民主党 / 新政信州(泉G) |
選挙区 | 長野2 |
議員サマリー
政治家になる前の経歴
- 長野県松本市で生まれる。 - 千代田区立番町小学校、開成中学校・高等学校、信州大学経済学部を卒業。 - 大学卒業後、富士銀行に入行し、アメリカ合衆国での勤務も経験する。 - 1990年、富士銀行を退職し、厚生大臣であった父・下條進一郎の秘書官に就任。 - 秘書官の後、証券会社へ勤務。
政治家としてのキャリア
- 2000年、第42回衆議院議員総選挙に民主党公認で長野2区から出馬するが落選。 - 2003年、第43回衆議院議員総選挙に民主党公認で長野2区から出馬し、初当選。 - 2005年、第44回衆議院議員総選挙で再選。 - 2009年、第45回衆議院議員総選挙にて3選。 - 2011年、野田内閣で防衛大臣政務官に就任。 - 2012年第46回衆議院議員総選挙で落選。 - 2014年第47回衆議院議員総選挙で再び落選。 - 2017年第48回衆議院議員総選挙で国政に復帰し、希望の党から立候補、5選を果たす。 - 2021年第49回衆議院議員総選挙で5選。立憲民主党長野県連代表に就任。
政治活動上の実績
- 2009年、乗車中の自動車事故に遭い重傷を負うも、その年の衆議院議員総選挙で3選。 - 2011年、防衛大臣政務官に就任し、政務官としての職務を果たす。 - 2017年、希望の党共同代表選挙では大串博志を支持。 - 不祥事として、2007年以降の秘書へのパワハラ問題で提訴されるも、証明されず。 - 2008年から2010年、在日韓国人団体からの問題献金について報道される。 - 2011年、耐震偽装に関する発言が事実誤認とされ、名誉棄損で550万円の賠償命令を受ける。
政治的スタンス
- 日本国憲法第9条の改正に反対の立場。 - 原子力発電について、将来的な廃止を目指すべきという立場。 - 日本の核武装については、検討すべきでないとし、非核三原則の維持を主張。 - カジノの解禁に反対の立場をとる。
国民の代表としての適格性を判断する上で特筆すべき事項
- 政治家としてのキャリアに加え、経済分野での経験を持つ。 - 一方で、一連の不祥事や不適切な献金の受領により、公正さが問われることがある。 - 秘書へのパワハラ問題について、複数の証言が挙げられる中で議員不適格と指摘されることもあり、信頼性に疑問を呈されることもある。 - 祖父母から父に至るまでの政治家一家に育つも、個人としての実績と責任が問われ続けている。
二階 俊博(にかい としひろ)
議員データ
衆議院議員 | |
年齢 | 85歳 (1939年02月17日生) |
所属政党 | 自由民主党 (自由民主党(田中派→竹下派→羽田派)→)(新生党→)(新進党→)(自由党→)(保守党→)(保守新党→)自由民主党(二階グループ→二階派→無派閥) |
選挙区 | 和歌山3 |
議員サマリー
政治家になる前の経歴
和歌山県御坊市で生まれる。父親の俊太郎は和歌山県議会議員、母親は女性医師である。 和歌山県立日高高校に進学し、高校生時代に生徒会長を務める。 中央大学法学部政治学科に進学。学生時代は政治家や文化人との交流を持つ。 大学卒業後、遠藤三郎衆議院議員の秘書を務める。 1975年、和歌山県議会議員選挙に立候補し2回当選し、政治家としてのキャリアをスタートさせる。
政治家としてのキャリア
1983年、衆議院議員に初当選。以来、自由民主党、離党・復党を経て現在まで13期連続当選を重ねている。 運輸大臣(1999年-2000年)、経済産業大臣(2005年-2006年、2008年-2009年)などを歴任。 自由民主党幹事長(2016年-2021年)を務め、党内で重要な役割を果たす。 東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長森喜朗の発言でもボランティア辞退者が出る中、影響力を見せた。 2024年、次期衆院選には出馬しない意向を表明。
政治活動上の実績
1983年、衆議院議員選挙で初当選を果たし、以来13期にわたり国会議員を務める。 1993年、新生党の結成に参加し、小沢一郎と政治行動を共にする。 2005年、郵政民営化法案の衆院通過に尽力し、選挙責任者として自民党を大勝利に導いた。 2009年、西松建設事件で秘書が虚偽記載で略式起訴され、自身は起訴を免れた。 2024年、派閥の裏金問題で責任を取り、次期選挙への立候補を取りやめる意向を表明。
政治的スタンス
親中派として中国との関係強化に積極的であり、日中友好議員連盟会長も務める。 国土強靭化を推進し、災害に対する防災対策にも注力している。 積極財政を支持し、経済対策や財政出動を推進する立場。 選択的夫婦別姓制度にもどちらかといえば賛成の立場を示している。
国民の代表としての適格性を判断する上で特筆すべき事項
多党派時代を通じて培われた幅広い人脈と調整力を持ち、派閥を超えて影響力を発揮してきた。 幹事長在任中は党内の派閥を調整し、自民党の党運営に関して重要な役割を果たした。 2009年に西松建設事件や2024年の裏金問題で秘書が起訴されるなど、不祥事がある。 2024年には政治責任を取って次期選挙には出馬しない意向を示すなど、状況に応じた責任の取り方を見せている。